妖刀・名刀の名前一覧20選!日本刀を時代順にまとめてみた!

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日本刀ーその魅力

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日本刀ー。日本史マニアをひきつけてやまないアイテム。今日では海外でも日本刀コレクターも少なくないといいます。

日本刀の魅力とは、どこにあるのでしょうか。

当然、日本刀は武器であり、人を殺傷するための道具としての側面を持ちます。

一方、日本刀は昔から芸術品としても認知されており、日本刀としての美しさが論じられてきました。

さらに言うと、日本刀が一つ一つ刀鍛冶のオリジナルだったために、その日本刀を手にした人、その日本刀で戦った歴史が、日本刀自体の魅力として語り継がれた面もあります。

この記事では、このような観点から、特に魅力的な「名刀」を筆者の独断と偏見で選びだし、紹介させて頂こうと思います。

妖刀・名刀の名前一覧20選!

妖刀・名刀と言われる日本刀を20選まとめてみました。

 

平安時代の日本刀

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今日に通じる日本刀のルーツは、およそ平安時代中期にさかのぼれるといいます。

この時代は公家の権威が落ち、武家の勢いが高まった時期ですから、武家の要望に応じて多くの刀が作られたのです。

このころの日本刀は、「太刀(たち)」といわれる形をしていました。

当時の武士たちは馬に乗って戦いました。

「太刀」は弓形に刀が湾曲し、また刃長も75cm程度と長く、馬上から敵をめがけて切りつけるスタイルで戦いました。太刀の先の部分は小さく磨かれており、刃先で突くことで攻撃することもできました。

  1. 三日月宗近

平安時代の刀工の三条宗近の作で、刀身に反りのある形式の日本刀の中では古いものです。

国宝に指定されています。「天下五剣」の一つにも数えられています。

この刀、平安時代以来幾多の合戦において用いられ、流れ流れて豊臣秀吉の正室高台院から、遺品として徳川幕府2代将軍徳川秀忠に送られて以来、徳川家の所蔵品でした。戦後一時人手に渡りましたが、1992年に東京国立博物館に寄贈されています。

2. 童子切

「童子切 写真」の画像検索結果

平安時代、伯耆国の刀工、安綱の作といわれています。

国宝に指定されており、「天下五剣」の一つでもあります。また日本刀東西の両横綱の一つとも。

刀の反りが非常に美しい名刀です。

源頼光が、丹波国大江山に住み着いた酒呑童子という鬼(山賊のようなものだったといわれます)をこの刀で切り落としたという伝説が残っています。

その後足利将軍家、豊臣秀吉、さらに徳川家康・秀忠へと受け継がれ、1951年に国宝指定。現在は東京国立博物館に所蔵されています。

3. 大包平(おおかねひら)

平安時代の吉備国の刀工包平作。童子切とあわせて、

日本刀東西の両横綱と絶賛されています。国宝。

刀身はやや幅広く、それでいて刀身の厚みは薄く、刀の先は太くて短い。刃長が89.2cmと長いのが特徴ですが、それでいて重量は1.35kgしかなく、長い刀でかつ薄いつくりを両立させているのは、包平の作刀技術の巧みさを如実に示しているといわれます。

代々岡山藩主の池田家に伝わっており、毎年正月に飾っていたという記録に残っています。1967年に東京国立博物館に収蔵されています。

鎌倉時代の日本刀

鎌倉時代に入ると武士の台頭が著しくなり、戦乱が各地に広まったために日本刀への需要が急増しました。

一方、源頼朝を鎌倉将軍に任命した京都の後鳥羽上皇は日本刀の愛好家で、「御番鍛冶」制度をつくり鍛冶師の保護を図り、「菊御作」とよばれる太刀を数多く作らせました。

4. 鬼丸国綱

鎌倉初期の山城国の刀工、国綱の作品。天下五剣のうちに数えられる名刀で、現在皇室の所蔵(御物)となっています。

刃長78.2cmであって、平安時代の太刀が腰回りのみ反っている「腰反り」だったのに対し、刀全体が反る「輪反り」の形式を取り始めたものです。

「鬼丸」という名が付いたのは、「太平記」によれば、北条時頼が毎晩夢に小鬼が出てくるので苦しめられていたところ、夢の中に老人が現れ、「自分は国綱であるが、汚れた人の手に握られてさびてしまい、さやから抜け出せないから、妖怪を退治するために、錆を拭い去ってほしい。」と述べたので、この刀を手入れしたところ、刀が倒れ掛かって、火鉢の台に施された細工の首を切り落としたという。この細工の首が鬼の形をしていたから、といわれています。

鬼丸は代々北条家の家宝でしたが、新田義貞が北条家を倒した時に鬼丸を手に入れ、これを足利尊氏に献上し、その後豊臣秀吉の所蔵となりました。大坂の陣のとき徳川家康の所蔵となりましたが、後水尾天皇に献上、皇室所蔵となりました。

天下人を渡り歩いた天下の名刀なのですね…。

5.古今伝授行平

古今伝授の太刀

鎌倉時代初期、豊後国の刀工・行平の作品。国宝に指定されています。

この刀の特徴は、腰元に複雑な彫り物や銘を施してあるところで、梵字や神像の浮彫が施されている点が注目されます。

代々細川家の所蔵品として知られていましたが、古今伝授(古今和歌集の解釈の口伝)が絶えてしまうことを恐れ、関ケ原の戦いの前に細川幽斎が烏丸光広に古今伝授し、その際にこの刀も烏丸に送ったとされています。これが「古今伝授」行平と呼ばれている所以です。

昭和初期に細川家が再びこの太刀を買い取り、以降細川家の文化財を保存する永青文庫に所蔵されています。

鎌倉時代中期の日本刀

(北条政子の図)

鎌倉時代の中期になると、北条氏の下で本格的な武家政権が確立。それに合わせて日本刀もより実践重視な形に変化していきました。

まず、刀の身幅が広くなり、反りも中反り型になっていきました。刃先は猪首風といって、頑丈な大鎧をも断ち切れる工夫がされていきました。

猪首鋒

(猪首鋒の図)

また、北条時頼は、自身のおひざ元鎌倉に刀匠を置くする必要を感じ、山城・備前から有名な刀匠を招聘。ここに、相州鎌倉鍛冶の礎が築かれました。

6. 一期一振(いちごひとふり)

一期一振-全身画像2

鎌倉時代中期、山城国の刀工粟田口吉光によって作られた刀です。名前の由来ですが、吉光は短刀ばかりつくる中、ただ一度だけこの太刀を作ったところから、「一期一振」という名前がついています。

この太刀は、文久3年(1863年)に当時の尾張藩主徳川茂徳から孝明天皇に献上されて以降、歴代天皇が「御由緒物」として相続してきました。「御由緒物」とされる刀剣の格は非常に高く、歴代天皇が日々行う宮中祭祀で用いられるものだといわれています。一期一振は、相州行光の太刀とともに、毎年10月17日に実施される神嘗祭(かんなめさい)に用いられるとのことです。

7.平野藤四郎

平野藤四郎-画像

京都粟田口の刀工、粟田口吉光の作った短刀です。

長さは約30cm、他の短刀と比較して大ぶりの出来であり、吉光の特徴もよく出ていて、吉光の作刀の中でも抜群の出来との評価を得ています。

名前の由来は、豊臣秀吉の家臣木村重茲が、承認平野道雪より金30枚で入手したとの言い伝えによります。木村はこれを豊臣秀吉に献上、豊臣秀吉はこれを前田利常に譲り、以降加賀藩前田家に相続されてきました。

明治12年、加賀藩の前田斉泰より明治天皇に献上され、以降御由緒物として扱われています。

現在、この短刀は皇后陛下の御枕刀としての役割を担っています。

8.大般若長光

大般若長光-画像1

鎌倉時代中期、備前国の刀工長光作の太刀です。国宝に指定されています。

刃長73.6cm、反り2.9cmでいわゆる腰反り型の反り方をしており、刃先は猪首様です。鎌倉時代から南北朝時代の太刀は、後世寸法を縮めた(磨上)したものが多いといわれますが、大般若長光は、制作当初の姿をとどめ、高低の差が大きく華やかな刃文が特徴といわれます。

「大般若」の名が付いた由来は、室町時代に銭600貫目という破格の値段が付いたことから、「大般若経600巻」にひっかけて「大般若」という名がついたとのことです。

最初足利家の所蔵でしたが、三好長慶に下賜され、やがて織田信長の手に渡り、姉川の戦いの功としてこの刀を与えられた徳川家康は、長篠の戦の戦功としてこれを奥平信昌に与え、この子孫(武蔵国忍藩)が代々相続をしてきました。

1939年に当時の帝室博物館(今の東京国立博物館)に6万円という破格の値段で買い上げられ、後進の東京国立博物館に所蔵されています。

鎌倉時代後期の日本刀

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鎌倉時代後期の日本刀は、日本始まって以来の国難、元寇来襲への対応を迫られることで大きく変化をしました。

それまで日本の武士同士の戦闘は、お互いに名乗りを上げたのちに行う「一騎打ち」戦闘が主流でしたが、元軍は武士一人を集団で包囲する戦法を採ったために、日本刀をもつ鎌倉武士たちはこれに太刀打ちが出来ませんでした。

元寇で明らかになった日本刀の欠点は以下の3点でした。

  • 重くて振り回すことができない。
  • 何度も太刀を合わせると折れてしまう.
  • 刃こぼれした場合、猪首鋒では研ぎなおしができず、太刀そのものが使えなくなる。

以上の日本刀の欠点を補うべく、相州鍛冶たちは、軽量にして強度の高い太刀を作り出すことに成功。

「折れない、曲がらない、鎧をも断ち切る」ための日本刀の製法が確立します。

鎌倉後期の日本刀の特徴は、刀の身幅が細く、刀自体も軽く、刃先が伸びたことで、技術的にも美術的にも優れた形になったことです。

9.観世正宗

鎌倉時代末期、鎌倉で活動した刀工で、日本刀剣史上最も有名な刀工の一人といわれている正宗(五郎入道正宗ともいう)の作成した太刀です。

正宗のネームバリューは相当なもので、三菱財閥の総帥岩崎弥太郎は「金には糸目をつけないから正宗を収集せよ」と命じたといわれます。

また、江戸時代正宗の作品は値段が付けられないと考えられたそうです。というのも、正宗は武士が主君に献上するか、あるいは褒美として主君が武士に下賜するか、いずれかによってしかやり取りされないほどに価値が高いと考えられていたとのこと。

この「観世正宗」は、元々観世家が所持していたものを徳川家康が召し上げ、以降徳川家と幕臣の間で拝領と献上が繰り返され、明治維新後に徳川家が有栖川宮に献上、有栖川宮を継いだ高松宮家に相続されたとのことです。

現在東京国立博物館に収蔵されています。

10. 小竜景光

小竜景光

鎌倉時代後期の備前国の刀工景光作の太刀です。国宝に指定されています。

景光作品の中でも名作中の名作といわれているとのことです。

小竜景光は、後世に寸法を切り詰められていますが(磨上げ)、腰回りがたかく、刃先では直線的な形状をしている点に特徴があります。

「小竜」の名は、鞘と刀身とを固定させる金具に倶梨伽羅竜の彫り物があることから名づけられました。かつて楠木正成の所有であったといわれていましたが、これは後世の伝説と考えられています。江戸時代、井伊直弼の所有にかかり、桜田門外の変で暗殺されたのちに、結局1873年東京都知事を介して宮内庁に献上されたといいます。

明治天皇がサーベル形式の外装を作成させ、自ら使ったといわれてもいますが、事の真偽はわかりません。

二次大戦後宮内庁から東京国立博物館に移管され、現在に至ります。

11.道誉一文字

備前国の刀工、備前一文字の作った太刀です。

刃長は約80cmで、波紋が大きく乱れているなど派手な作りになっています。

この太刀は、最初足利尊氏配下の佐々木道誉の所蔵品でしたが、江戸時代に入ると、越前福井城主・松平忠直の手に渡り、その子光長に相続されました。しかし、光長が流罪になった後、この刀は当時の後西天皇の次男の幸仁親王の所蔵となり、尾張徳川家に移り、次いで奥州南部家に贈与され、以降南部家の家宝として代々伝えられてきましたが、昭和3年に南部家から皇室に献上され、御物とされて今に至ります。

南北朝時代の日本刀

「後醍醐天皇」の画像検索結果

(南朝を率いた後醍醐天皇)

皇室が持明院統(北朝)と大覚寺統(南朝)に分裂し、大混乱を来していた時代、全国の武士たちも両派に分かれて盛んに戦い、日本刀への需要はますます高まっていきました。

下剋上の気風が広がり、武士の力量を誇示するような大きな日本刀が盛んに求められることになりました。

技術的には、鎌倉後期に確立した「折れない、曲がらない、よく切れる」相州伝流の作刀技術が全国に広まり、それまででは考えられなかった3尺から5尺(90∼150cm)の大太刀が作られるようになりました。

また、倒れた武士の鎧の隙間から突き刺すために作られた「鎧通し」といわれる短刀も作られるようになり、かつて儀礼的な要素も残っていた一騎打ちの戦いは、なんでもありの無秩序な戦いへと容貌を変えていったのです。

鎧通し

(鎧通しの図)

12. 小夜左文字

小夜左文字

筑前国の刀工、左文字作の短刀です。1952年に国の重要文化財に指定されています。

刃長は24.5cmで、若干反りが付いています。短刀としてはやや大振りとのこと。

この小夜左文字には伝説があります。遠江国の浪人の妻が、夫の形見の短刀を掛川に売りに行く途中に、「小夜の中山」というところで山賊に短刀を奪われて斬り殺されてしまった。その後、その子は掛川の研ぎ師に弟子入りして働いていたが、研ぎを依頼した浪人が、自分の母を殺した敵であることを知り、その浪人を殺して仇を討ったとのことです。

この話の真偽は別として、事実としてはもともとこの短刀は細川幽斎の所有で、1627年の小倉大飢饉の発生に際して藩主細川忠利はこの小刀を売却。名家を転々としたのちに、秋田の愛刀家柴田家に買い取られたとのことです。

13.へし切長谷部

山城国の刀工、長谷部国重によって製作されたとされている日本刀です。1953年に国宝に指定されました。

もともとは南北朝時代に流行した大太刀だったのですが、のちに切り詰められた結果、現在では長さ64.8cmとなっているが、元幅3.0cm、先幅2.5cmという広い身幅に薄い刀身、大きな切先は南北朝時代の典型的な大太刀の特徴を示しています。

この刀は、織田信長がある茶坊主を成敗しようとしたときに、台所の棚の下に隠れたために、棚ごと圧し切り(刀身を押し当てて切る)して茶坊主を斬殺してしまいました。それだけよく切れる刀ということで、「へし切長谷部」の名がつくことになりました。

その後、この刀は羽柴秀吉の所有を経て黒田長政に下賜されたといわれています。以降代々黒田家の家宝として所有されていましたが、1978年、黒田茂子氏より『黒田資料』として福岡市に寄贈され、現在は福岡市博物館に所蔵されています。

室町時代の日本刀

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(応仁の乱の絵図)

南北朝の戦乱がひと段落ついた室町時代前期の日本刀は、長さ・身幅共にバランスの良い、細身で優雅な形が特徴です。南北朝期の大太刀のような、威勢を示すような刀よりは、優美な置物としての日本刀が好まれるようになったのです。

ところが応仁の乱以降の室町時代後期になると、再び日本は戦乱が頻繁に起こるようになります。この時代、戦闘は馬上の武人同士の一騎打ちではなく、足軽を多数動員した歩兵戦が中心になります。この歩兵専用に作られたのが、打刀です。

打刀とは、刃を上に腰帯にさすタイプの日本刀で、徒歩戦で日本刀が抜きやすいように、刀長は63㎝前後に作りました。身幅を広く取り、先反りが強く付くことが特徴です。時代が下るにつれて、片手でも扱えるように刃長を短めにした刀も登場しました。

日本刀の需要は年々高まり、従来の手間のかかる工法ではとても生産が需要に追い付かなくなってしまいました。明への輸出品同様に、東海地方を中心に大量生産品(数打物)が大量に出回りました。

14. 妙法村正

室町時代後期、伊勢国の刀工千子村正の作った打刀です。1942年に重要美術品として認定されています。

この刀は、日蓮宗との関係が顕著であることが特徴です。表銘に「妙法蓮華経」の文字が書かれており、この代の村正(村正は個人名ではありませんでした)は日蓮宗に帰依していたことが窺えます。妙法村正の「妙法」は、この「妙法蓮華経」の字から採られています。

この刀は佐賀藩藩主鍋島勝茂の愛刀で、その後妙法村正は勝茂の長男鍋島元茂に相続され、以降同家で代々受け継がれてきました。重要美術品認定時の所有者は鍋島直庸子爵、現在は個人所蔵です。

15. 刀 銘 備前国住長船十郎左衛門尉春光

戦国時代、備前国の刀工十郎左衛門尉春光によって作られた刀。重要刀剣に指定されています。

刀長は67.1cm、反りの中心が刀身の中ほどより先にある「先反り」の特徴は、戦国時代の日本刀の特徴です。この当時は、武将の好みに応じて作られた注文打ちと大量規格品である数打ち物とがともに生産されましたが、この日本刀は刀の柄に刻まれた銘が細かく書かれているために、水準の高い注文打ちの刀剣であったことが分かります。

この刀ですが、日本海海戦で活躍した東郷平八郎海軍大将の遺物として、知られています。

16.亀甲貞宗

鎌倉の刀工正宗の子貞宗の作。貞宗は鎌倉時代末期から南北朝時代にかけて活躍しました。国宝に指定されています。

刃長70.9cm、反りは2.4cmあります。

「亀甲」の名は、刀の取っ手に亀甲菊花文様の彫り物があるところから名づけられました。

最初明智光秀の所有といわれ、のち徳川家に伝来し、松江藩藩主松平直政に与えられ、奥州窪田藩土方家に伝わり、南部家にわたり、尾張徳川家の求めに応じてこれを贈与し、尾張徳川家から徳川綱吉に献上され、以降代々将軍家に受け継がれてきました。明治維新後も徳川家が所有し、1936年に徳川家達公爵所有の国宝に指定され、1965年に新国宝に指定され、東京国立博物館に寄贈されました。

安土桃山時代の日本刀

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安土桃山時代は、日本戦争史における一大画期でした。というのも、』1543年にポルトガル船が鉄砲をもたらすと、瞬く間に日本全土に鉄砲が普及。織田信長が武田軍に鉄砲の導入で大勝した「長篠の戦い」を契機に、騎馬戦闘に代わり歩兵戦闘が中心となり、簡単に振り回しやすい打刀が主流になりました。

また、古い刀や太刀の「磨き上げ」(刀を短く切り詰めること)が盛んにおこなわれ、打刀同様に用いられるようになりました。

豊臣秀吉による天下統一ののち、1588年に刀狩が実施され、武士以外の日本刀所有を禁じ、日本刀は太平の世の到来と相まって武士のための宝物の意味合いを強めていきます。

18. 刀 銘 肥前国忠吉

戦国時代末期から江戸初期にかけて、佐賀藩の初代藩主鍋島勝茂の庇護のもとに作刀に励んだ刀匠橋本新左衛門の作品です。重要刀剣指定。

17. 山姥切国広

山姥切国広

安土桃山時代の刀工、堀川国広の作った日本刀。1962年重要文化財に指定されました。

国広はもともと飫肥藩家臣でしたが、飫肥藩没落後は山伏となり、九州各地で作刀。その後豊臣秀吉に庇護され、京都一条堀川に定住して多くの弟子を育てた有名な刀匠です。

この刀は、南北朝期の備前長船派の刀工、長義作の山姥切長義の写しとして作られました。刃長は70.6cm、反りは2.8cm。身幅が大きく、反りの浅い新刀期特有の形を見せています。

残念ながら、「山姥切」という語の由来は不明です。

江戸時代の日本刀

江戸城 江戸 城跡 城 本丸 徳川 雪 皇居

(天下泰平をほしいままにしてきた江戸城)

戦国時代以前、日本刀の原料になる鉄は、限られた地域でしか入手ができませんでした。しかし、江戸時代に入ってからは流通が発達し、日本刀の原材料をどこでも入手可能になってきました。その為、江戸時代以降の日本刀の特徴は、地域的な流派による日本刀の特徴が薄まり、刀工個人の個性が作刀に反映されていきます。

また、大坂の陣以降日本国内に戦乱はなくなり、日本刀の実質的な意義は少なくなりました。その為、日本刀は武器ではなく、武士としてのシンボルへと役割を変化させていきました。。

やがて日本刀は大名・武家間の贈答用の需要を除いてなくなっていき、刀工は、髭剃りや包丁を作る職人への転業を余儀なくされていきました。

幕末期になると、一時的に日本刀への需要が高まりましたが、明治新政府は軍刀として規格品である「村田刀」の採用を決定。ここに兵器としての日本刀の歴史は終わりました。

(村田刀の図)

その後の西南戦争で、賊軍(西郷軍)の白兵戦に対して平民出身の歩兵隊が無力だったことを受けて投入された士族中心の日本刀による切込み部隊が大きな戦果を挙げたことを受け、日本刀の兵器としての有用性は幾分見直され、昭和20年の終戦まで、西洋風のサーベルの中身に安価な日本刀を携帯していたということです。

19.刀 銘 繁慶

江戸時代に江戸で活躍した刀工繁慶の作。繁慶は自らの作品の範を鎌倉時代の相州伝に求めようとしたといわれますが、この作品の特徴からは、鎌倉時代末期、越中の則重もモデルにしていたことが窺われます。

江戸期の日本刀の理想は、鎌倉時代から南北朝時代の威風堂々とした作風に求められたのです。

この刀は久留米藩を領有した有馬家に代々伝わっており、特別重要刀剣に指定されています。

20. 和泉守兼定

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江戸末期、会津藩で活躍した刀工兼定により作られた日本刀で、新選組副長土方歳三の使用していたものです。

会津兼定は、代々会津藩で刀工として奉公していた家ですが、会津11代兼定は京都で一時作刀をしていました。その関係で、土方の愛刀を作る機会に恵まれたようです。

最後までお読みいただき、ありがとうございましふぁl

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