宮本武蔵の刀まとめ!名前・長さは?二刀流のきっかけ・持ち方は?

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剣豪・宮本武蔵…。

彼の名を知らない日本人はそうはいないでしょう。

巌流島の戦い、二刀流といった言葉が頭に浮かびます。

13歳で初めての決闘に勝って以来、29歳まで60戦60勝を誇った宮本武蔵。

余りの存在感に、武蔵の言動には様々な尾ひれがつき、江戸時代には歌舞伎・講談・浄瑠璃の素材とされ、明治以降も様々な小説やテレビドラマに取り上げられ、まさに「伝説の人」となってしまいました。

とはいいながら、宮本武蔵は単なる「剣豪」にとどまる人間ではありませんでした。

武蔵は若いころこそ決闘に明け暮れたものの、その後は戦国時代再末期にあって兵法家として有力な大名に教えを請われた存在でした。

かの「二天一流」は、武蔵の著書「五輪書」の中できちんと理論化されており、当時の戦場においては一定の合理性を持った剣術と評価できます。

「五輪書」の中で武蔵が他の流派に加えたコメントも、理にかなっていて興味深い内容になっています。

というわけで、この記事では、伝説のベールをはがした「宮本武蔵」その人に迫っていきたいと思います。

 

宮本武蔵の生涯

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(宮本武蔵像 by 宮本武蔵 武蔵には絵心もあったのです。)

宮本武蔵、巌流島の戦いであまりにも有名な存在になっていますが、そもそもこの人は何時代を生きた人か、皆さんご存じでしょうか?

武蔵は1584年頃、播磨国(現・兵庫県)あるいは美作国(現・岡山県)に、播磨を支配した大名赤松家の支流の家に生まれたと考えられています。

武蔵著『五輪書』には、13歳から29歳まで60戦60勝であったことが記されていますが、具体的な決闘の記述は殆どありません。

そんなことを言っては身も蓋もありませんが…

私は、武蔵の真骨頂は彼の兵法家としての能力にあったのではないかと考えています。

関ヶ原の戦いでは、父とともに徳川側について戦ったことが史実としてわかっています。

大阪の陣では、やはり徳川方に参戦し、水野勝成の子勝重の下で活躍をしたことが歴史的に裏付けられています。

その後、姫路藩主本多忠刻の庇護を受けながら活動し、明石の街の都市計画(!)を主導、また姫路・明石の城や寺院の作庭にも携わったということです。

武蔵さん、万能人ですね…。

東洋のレオナルドダビンチとでもお呼びしましょうか。

1640年、熊本藩主細川忠利に招かれ、活動の舞台を姫路から熊本に移します。

300石取りの破格の待遇で迎えられ、熊本藩士は殆ど武蔵の弟子となったとの記録があります。

武蔵の著書『五輪書』は、熊本滞在記、死の直前にまとめられたもので、兵法書として弟子寺尾孫之允に与えられています。

1645年、武蔵は62歳で亡くなりました。

 

宮本武蔵の愛刀は?

宮本武蔵の愛刀についてまとめてみました。

宮本武蔵の愛刀は2本です。

  • 無銘金重(むめいかねしげ)
  • 和泉守藤原兼重

順に解説していきます。

 

無銘金重(むめいかねしげ)

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南北朝時代初期、鎌倉に学び、のちに美濃の関という町で関一派という流派を立てた刀工金重作の名刀です。

刃長70cm、反り1.7cmと南北朝期の刀としては小ぶりなのですが、元々この刀は大太刀で、後世に磨上げ(長い刀を短く削ること)されたものだということです。

戦国時代には騎馬戦よりも歩兵戦が主となったので、あまりに大きな刀は使い勝手が悪く、古刀を磨上げして短くすることがよく行われました。

 

和泉守藤原兼重(いずみのかみ かねさだ)

刀 和泉守藤原兼重 (新刀上作)業物 特別保存刀剣鑑定書

これは江戸時代に江戸鍛冶草創期を代表する刀工和泉守兼重の作品です。

兼重は武蔵の友人で、武蔵の口添えによって伊勢津藩藩主藤堂氏のお抱え鍛冶師になることができたということです。

刃長81.5cm、鞘などを加えた全長は117.5cmにもなる長い刀です。

剣豪武蔵の60戦60勝伝説は多少とも眉唾だったとはいえ、やはり武蔵は剣豪としての能力も高かったようで、その理由は腕力が非常に強くて長い(つまり重い)刀を自在に操れた、というのが一つの理由ともいわれています。

また、この刀の拵(要するに刀の取っ手ですね。専門的には鞘・柄・鍔といった部位からなるそうです)は、武蔵お手製とのことです。

武蔵さん、どんだけ万能なんだ…。

 

武蔵の二刀流、なぜ生まれた?

二刀流の侍 イラスト素材

武蔵といえば二刀流、二刀流といえば武蔵、というべき程に武蔵の二刀流というイメージは日本人に強く持たれてしまっていますが、この起源については、必ずしもはっきりとは明らかになっていないようです。

後世の脚色が過ぎたのでしょうか。

ただ、『五輪書』に伝わる二天一流が江戸時代全国的に流行したのは事実で、無から有が生まれるとも思えませんので、おそらく武蔵自身、二刀を用いることがあったことは事実だと私は思います。

伝承には武蔵は非常に強い腕力があったために、普通両手で持つ日本刀を片手で持ちえたといいます。その可能性は否定できないでしょう。

また、武蔵が明石の都市設計にかかわったこと、数々の作庭を手掛けたことから考えると、武蔵は極めて高い空間把握能力を持っていたと考えられ、その空間把握能力があってこそ、生きるか死ぬかの戦場で二つの刀を両手に持って、巧みに使い倒せたと考えることができると思います。

 

武蔵の流派「二天一流」とは?

五輪書のイラスト

(二天一流を説いた『五輪書』は地の巻・水の巻・火の巻・風の巻・空の巻の5巻から成った。)

二天一流は、若いころの武蔵の剣客としての経験、それ以降の武将としての経験を踏まえて、熊本に滞在した最晩年(武蔵60歳のとき)に、武蔵の経験の結晶としてまとめられた兵法です。

単に、剣を二本持って戦うのがよい、という話ではありません。

五輪書の中身を見ると、武蔵の兵法「二天一流」の思想は、2点に集約されるのではないかと思います。

第1に、よく相手を観察し、また相手に自分の意図を悟らせずに、常に相手に対して先手を取ることを説きます。

『五輪書』火の巻に「我を将と思い、敵を兵と思え」という言葉がありますが、武蔵の考え方をよく象徴していると思います。

第2に、武蔵は一対一の個人戦も集団対集団の歩兵戦も、意識するべきは同じこと、と考えていることです。

この点、純軍事的に考えれば、個人戦と歩兵戦では戦い方が違うのは当然のことで、兵法書としての『五輪書』が抽象的に過ぎる、具体的に整理して兵法を考察できていない結果と考えることもできます。

ただ、武蔵は、若いころの剣客としての経験と、その後の武将としての経験を思い返し、あまり整理をつけることなく「書きつけた」ものと思われ、武蔵自身も『五輪書』の中で、「あまり整理せず、後先を逆にして書くようなこともあったが…」と述べています。

武蔵は空間把握には長けていた一方、あまり理屈を言うのは得意でなかったのかもしれません。

 

武蔵の他流批判から「二天一流」を考える

武蔵は、『五輪書』風の巻で、他流派の特徴を挙げ、自分の弟子が彼らと戦うときの参考にするように述べています。

かえって武蔵の他流派への批判から、武蔵の「二天一流」が具体的に見えてくるかもしれません。

まず、長太刀を用いる流派に対しては、接近戦に不向きであり、狭い場所では不利に働くと指摘しています。これは戦国時代の戦闘の実態を冷静に観察した結果といえます。

というのも、足軽を多数動員した集団戦をベースとした戦国時代の合戦において、一対一の戦闘も接近戦となることは必至であり、長太刀を誇示するような態度は実践的ではなかったからです。

次に、短い太刀を用いる流派に対しては、先手が取れず後手に回るきらいがあると述べています。

短刀は一般に、敵にとどめを刺すときに甲冑を貫くことを企図して用いられたと考えられていて、短刀だけで戦いをすることができないというのは、戦艦時代の海戦で、どちらの船の大砲の射程距離が長いかが問題になったのと同じ理屈です。

姿勢・構え方に固執する流派に対しては、型を重視するあまりに守勢に回る傾向があるし、敵に自らの意図を察することを許さないためにも、あまり構えにこだわるべきでないと諭します。武蔵の「機先を制せよ」との考えが出ています。

最後に奥義・秘伝書を用いる流派について、生き死にをかけた戦いにおいて、初歩の技と奥義の技を使い分けることなどはあり得ないことであると、その非合理性を批判しています。

剣術の指導は、学ぶ者の技量に応じて為すべきであると主張します。

『五輪書』を読んでいくと、空をつかむようで(そういえば、五輪書の最後の巻物は「空の巻」でした。)何を言いたいかよくわからない部分もありますが、他流派の批判に及ぶときは、武蔵の言説も具体的にならざるを得ず、これを読むことで、「二天一流」の合理性を理解することができる面がありましょう。

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