佐々木小次郎の刀「物干し竿」の長さが規格外!秘技燕返しとは?耳は聾唖?

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「侍」と言えば皆さんは誰を思い浮かべるでしょうか?

目にも止まらぬ剣さばきや、ストイックな生き方・・・

今回はそんな魅力あふれる侍のなかから、日本だけではなく海外でもその名前を知られている超有名な侍、佐々木小次郎をご紹介します。

 

佐々木小次郎の刀「物干し竿」の長さが企画外だった?

佐々木小次郎といえば、ライバルである宮本武蔵との巌流島での決闘が有名ですが、

その際に使われたとも言われるのが佐々木小次郎の愛刀、「物干し竿」です。

 

この「物干し竿」ですが、実はこれは本当の名前ではありません。

正式名称を「備前長船長光(びぜんおさふねながみつ)」。

長光といえば国宝の「大般若長光」に見られるような名刀で有名ですよね。

長光の刀剣の多くは素晴らしい名刀とされ、現存するものは国宝や重要文化財として美術館や博物館に保管されるほか、神社に奉納されているものもあります。

佐々木小次郎の刀も、相当な名刀だったと考えられます。

 

さて、当時江戸幕府は刀の「定寸(おおそよの決まった長さ)」を二尺三寸五分(約70センチ)と定めていました。

実際はそれ以上の長さの刀を使用する流派もあったそうですが、幕府の決めたことですから、だいたいの人は定寸の刀を持っていたと思われます。

それに対して、「物干し竿」の長さは三尺。

これは約1メートルになりますので、普通の刀より30センチほど長かったということになります。

江戸時代の平均身長が150センチですから、30センチの差はなかなかのものですよね。

当時の人々はその長さに驚いて、「物干し竿」と呼んだのではないでしょうか。

 

佐々木小次郎の刀「物干し竿」は実在しない?

この「物干し竿」ですが、残念ながら現在は実物を見ることはできません。

熊本県にある島田美術館にレプリカが展示されていますが、物干し竿自体が存在しなかったとも、あるいは別の刀を使っていたとも言われています。

 

なお、備前長船長光の名がついた刀は様々な博物館で見ることができます。

なかでも岡山県瀬戸内市にある備前長船刀剣博物館は常時40もの刀剣を展示しており、

タイミングがよければ刀匠の仕事を見ることもできるそうですよ。

日本有数の刀の産地で、名刀とともにかつての剣豪に思いを馳せてみるのはいかがですか。

 

佐々木小次郎は実在しない人物?

刀どころか、佐々木小次郎という人物自体が実在しなかった、という説もあります。

剣客であった佐々木小次郎は名前も出生も伝承によるところが多く、

正確な資料はほとんど残っていません。

ドラマやアニメではきりっとした美青年として描かれることが多い佐々木小次郎ですが、

実際には巌流島の決闘の際は50歳から70歳だったとも言われているのです。

また、子孫についても正確にはわかっておらず、

本当の佐々木小次郎の姿は誰にもわかりません。

 

源義経や明智光秀、織田信長などにみられるように、

昔から人気のある武将には様々な伝承がついてまわります。

佐々木小次郎も江戸時代の人々に人気だったからこそ、

後世まで伝わる様々な伝承が生まれたのではないでしょうか。

 

佐々木小次郎は耳が聾唖(難聴)だった?

佐々木小次郎の登場する漫画の代表ともいえる『バガボンド』では、小次郎は聾唖の剣士として描かれています。

小次郎を聾唖者として描いた作品はほかにはなく、またそういった資料もないためこれは創作になりますが、設定が加わることによってよりミステリアスなイメージになりますね。

数々の佐々木小次郎伝説も、こんなふうに生まれたのでしょうか?

私たちの何百年か後の人々がこれを見たら・・・

そう考えると、少しわくわくしますよね。

 

宮本武蔵と佐々木小次郎の勝敗は?

宮本武蔵と佐々木小次郎の決闘の地として知られる巌流島

この「巌流」とは、もともと小次郎の剣号であったとも言われています。

三尺もの長い刀を使用する剣術のことを小次郎は巌流としており、その必殺技こそが「燕返し」なのです。

 

燕返しとは、

  1. まず長い刀を相手の間合いの外で振り下ろし、
  2. 相手が間合いに入ったことを確認したら
  3. 瞬時に刀を返して斬る

という技のことを言います。

 

当時どんな剣豪であろうと素早く飛ぶツバメを斬ることはできないと言われていましたが、

小次郎は地面すれすれを飛ぶツバメの動きを観察してこの秘技を編み出し、

師匠の鐘捲自斎(かねまき・じざい)を超えたのだそうです。

また、長い刀は当然そのぶん重くなるため、扱いが難しくなります。

振り下ろすだけで大変な刀を瞬時に返すこの技、

確かな実力を持った小次郎ならではの秘技だといえるでしょう。

 

このように相当な手練であった佐々木小次郎ですが、

巌流島での決闘はどのようなものだったのでしょうか。

宮本武蔵の養子であった宮本伊織による「小倉碑文」には、

武蔵と小次郎の決闘の様子が詳しく記されています。

 

剣の達人、巌流と名乗るものがおり、武蔵と雌雄を決することを望んだ。

巌流は真剣での勝負を申し込んだが、

武蔵は「私は木刀で戦う。あなたは真剣を使いお互い力を尽くして戦おう」と答え、

かたく決闘の約束を結んだ。

決闘は舟島という島で行われた。

二人は同時に相対し、巌流は三尺もの刀を手に命を顧みず剣をふるった。

武蔵は木刀の一撃にて討ち取り、それは電光よりも素早く思えるほどであった。

 

木刀で迎えうった宮本武蔵に一歩及ばず、

巌流島にてその一生を終えることになります。

一説には小次郎は即死してはおらず、息を吹き返したところを武蔵の弟子たちに殺されたとも言われています。

これに怒った小次郎の弟子たちも武蔵に報復をしようとするなど、お互いの弟子はかなり過激なライバル意識を持っていたようで、こうした弟子同士の諍いも決闘の引き金になったと言われています。

 

小次郎の死後、隠れキリシタンであった妻のユキは、小次郎の遺髪とともに山陰へとうつり、尼となってその菩提を弔ったそうです。

さて、謎多き悲運の剣客・佐々木小次郎をご紹介しましたが、いかがでしたでしょうか。

名前を知らない人はいないほどの有名な侍でありながら、その素顔は謎に包まれていました。

現在山口県阿武町には佐々木小次郎のものと伝えられる墓所があります。

数々の佐々木小次郎伝説を思い出しつつ、訪れてはいかがでしょうか。

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