だんだん日差しも強くなってきて、これから夏真っ盛りですね。
学校終わりにソーダを飲む、二十歳を超えたらビールを飲む、なんて場面も増えてくるのではないでしょうか。
透明なガラスに細かい彫刻が施された美しいグラス、それにたっぷりと氷を入れてしゅわしゅわの炭酸飲料を入れる。
飲む前から見た目で涼しさを与えてくれます。
ガラスのコップや皿に彫刻されているものはカットガラス、日本では切子と呼びます。
切子には有名なものに、江戸切子、薩摩切子というのがありますが、何が違うのかいまいち分からないという人が多いようです。
以下のことについてまとめてみました。
- 江戸切子と薩摩切子は作られた地域の違いだけなのか
- 大きな特徴の違いがあるのか
- それによって金額も違うのか
江戸切子と薩摩切子の違いは?
そもそも、江戸切子と薩摩切子はどこが違うのでしょう?
まずは江戸切子と薩摩切子を見比べてみましょう。
江戸切子は菊や麻など着物にも用いられていた江戸模様を彫刻しているのが特徴です。

江戸切子
色のついた切子は、透明なガラスに色ガラスを重ね、彫刻していくのですが、
江戸切子は江戸の幾何学模様を大胆に、かつ細部までカットしていくので光の反射がとても美しいです。
薩摩切子の特徴は、水彩画のようなグラデーションです。

薩摩切子
ガラスを重ねる手法は同じですが、江戸切子よりも厚く重ねられています。
それにより、彫った深さによって絶妙なぼかしを加えることができるのが薩摩切子魅力です。
更に、近年では二色被せという、二色の色ガラスを重ねて削ることで、何重にもわたる色彩のグラデーションを楽しむことができます。
光の反射が美しい江戸切子、透明になるまでの色彩変化が美しい薩摩切子、どちらにもそれぞれの魅力があるのでどちらがいいかはお好み次第。
江戸切子と薩摩切子の歴史は?
次にそれぞれの歴史を紐解いていきましょう。
江戸切子の歴史は1834年に、江戸大伝馬町のビードロ屋の加賀屋久兵衛が始まりと言われています。
当時は透明なガラスに金剛砂という研磨剤を使って手作業で削り、彫刻を施すという製法でした。
その技術は確かなもので、あの浦賀来航で有名なペリー提督もその技術に大変驚き、加賀屋に発注したほどでした。
- 切子 籠目霰文三段重
- 日本 江戸後期~明治初期 19世紀 サントリー美術館
江戸切子が本格的に普及したのは明治になってからです。
1873年(明治10年)明治政府の支援のもと、ガラスの工芸品を本格的に制作するため、品川興行社硝子製造所が開設します。
当時のガラス製品はビードロのような薄い物しか普及しておらず、ガラス食器のような耐久さもありませんでした。
そこで、切子作りの指導者として、英国のカットガラス技師エマヌエル・ホープトマン氏を招き、数十名の日本の職人たちが江戸切子の基盤を作っていきました。
更に西南戦争から逃れた薩摩の切子職人が合流し、透明だった江戸切子に色を付けることができるようになったのです。
大正時代になると、カットガラスが西洋風で美しいと重宝され、一気に一般家庭へと普及していきます。
食器だけでなくランプのようなインテリアにもガラスが用いられました。
昭和初期には江戸切子の全盛期が訪れるのですが、第一次世界大戦が始まると、ガラスの海外貿易が禁止されてしまい、職人たちは知恵を絞ります。
海外に頼らない安価なガラス素材、ソーダガラスで作る研究。
反対に、ぐっと純度を上げ、まるで宝石のような輝きをもつクリスタルガラスの研磨技術を開発。
江戸切子は、いよいよ一般家庭から高級品まで幅広く使われるようになりました。
戦後は高度経済成長による家庭の洋風化で需要が高まる一方、機械化によるカットグラスの量産も増え始め、江戸切子も影響を受け始めます。
伝統を守るため、1985年(昭和60年)に東京都の伝統工芸品産業に指定され、平成14年には国の伝統的工芸品に指定されました。
現在は江戸切子協同組合の定めた項目に該当したものでなければ名乗れません。
長い歴史を持ち、生活に根付いた大事な伝統を今でも守っているのです。
一方、薩摩切子の始まりは1846年、島津家27代藩主島津斉興が江戸から招いた硝子師四本亀次郎に作らせたガラス瓶とされています。
1851年、28代目藩主島津斉彬は、日本初となる洋式産業、集成館事業という大規模な近代化事業を推進しました。
鹿児島城下郊外に築いた工場群、集成館を中心に、製鉄・造船・造砲・紡績・印刷・製薬といった多くの近代産業の一つが薩摩切子です。
最盛期には100名以上の職人が鹿児島城内にある花園跡製煉所で独自の研究を行いました。
それは、無色透明のガラスに色を付けるというものでした。当時、紅・藍・紫・緑色の着色に成功し、海外でも高い評価を受けています。
特に紅は日本で初めて着色に成功したと言うことで薩摩の紅ガラスと呼ばれ、珍重されました。
しかし、1858年に島津斉彬が50歳で急逝してしまい、これまで続いていた集成館事業は財産整理で縮小せざるを得なくなりました。
更に、1863年に起こった薩英戦争で工場が消失してしまい、薩摩切子を作っていた職人はほとんどいなくなってしまいました。
1877年の西南戦争で、ついに薩摩切子の文明は完全に途絶えてしまったと言われています。
薩摩切子は島津斉彬が藩主となって7年という最盛期から縮小し、わずか26年で歴史の表舞台から消えてしまったのです。
転機は100年後に訪れます。
島津斉彬が手掛けた幻のガラス工芸を復活させようと1985年に鹿児島県に薩摩ガラス工芸が設立しました。
しかし、薩摩切子の復元は難航を極めました。
当時の資料がほとんどないのです。
わずかに残っていた当時の薩摩切子を実測し、大半は写真一枚から復元をしなければなりませんでした。
長い調査記録の末、ようやく薩摩の紅ガラスが完成したのは、薩摩ガラス工芸が設立してから数年後のことでした。
現在は、当時作られていた紅・藍・紫・緑の着色に成功し、新たに金赤と黄色、斉彬の色として島津紫と色鮮やかな薩摩切子を見ることができます。
江戸切子と薩摩切子はどっちが先?
たまに、「江戸切子と薩摩切子ってどっちが先なの?」という記事を見かけることがあります。
とても難しい質問です。
日本に入ってきたガラスの表面に加工したのは、江戸のビードロ屋が始まりでした。
その後、島津藩が江戸のガラス技師を招いて薩摩切子を作ったのですから、技術の移り変わりは江戸切子、薩摩切子の順です。
しかし、ガラス工芸を初めて事業として行ったのは島津の薩摩切子であり、江戸切子が一つのガラス工芸としてスタートするのは明治になってからです。
海外で知られている日本の伝統的なガラス工芸品は、薩摩の紅ガラスです。
現在、家庭に普及したのは江戸切子のカットガラス技法であり、大正時代から昭和初期の頃に普及していたものは和ガラスと呼ばれています。
その頃の薩摩切子は衰退し、一度途絶えてしまっています。
私たちの生活に馴染んできた歴史が古いのは江戸切子ですが、世界基準で知られている切子は薩摩切子です。
発祥は同じかもしれませんが、この二つは作られた目的が大きく異なります。
江戸切子は長い歴史を持っていて、日本に根付いた一般工芸品。
一方で、薩摩切子は島津藩を強くしようと作られた、海外貿易品の一つで高級品。
歴史的にどちらが先か、知られるようになったのはどちらが先か、普及したのかはどちらが先か。
こういった質問は、そもそも作られたコンセプトが違うので、比較できるものではありません。
江戸切子と薩摩切子の値段・価値の差は?
さて、ある程度知ったところで、匠の技が光る切子を一つは持っておきたいですよね。
江戸切子も薩摩切子も手作業なので、ごく普通のカットガラスよりも数段高いです。
試しに、ぐい呑みを例に調べてみました。
そして、ここにも作られた目的によって値段の差が生まれてきます。
日用品として作られることの多い江戸切子は、安くても5~6千円。
名前の売れている職人の作ったものなら1万円~が一般的です。
対して、贈答用や美術品目的で作られていた薩摩切子は、3万円~。
日用品と贈答品との差は約5倍です。
やはり、薩摩切子独特のグラデーションは現在でも唯一無二の美しさを誇っています。
なお、薩摩切子のグラデーションだけ楽しめれば、という方用に、ガラスカットされたネックレスやタイピンなどもリーズナブルで人気です。
それでも1万円はします。
日用品と贈答品とはいえ、何故ここまで金額に差が出る理由は、「薩摩切子」というネームバリューです。
島津斉彬が作らせた薩摩切子の製作は彼が存命だった7年間、以降は衰退し、わずか26年。
この数奇な運命が、薩摩切子の値段を跳ね上がらせている要因の一つとなっています。
では、島津藩が作っていた薩摩切子は今、いくらするのか。
実は、当時の薩摩切子が某お宝鑑定番組で紹介されたことがあるのです。
その金額はなんと、2000万円。
もはや、博物館級の値段です。
天満切子は江戸切子・薩摩切子と何が違う?
さて、ここまで日本で代表的なガラス工芸品、江戸切子、薩摩切子を紹介してきましたが、
実は最近になって表に出てきた第三の切子をご存じでしょうか?
それが、大阪発祥の天満切子です。
G20大阪サミットの国賓贈答品として採用されたことで一躍有名になりましたね。
実は、大阪とガラスの歴史は古く、ガラス商人の播磨屋久兵衛は、オランダ人より伝えられたガラス製法を長崎で学び、その後大阪でガラス工場を開いたとされています。
大阪天満宮正門脇には大阪ガラス発祥の地、と石碑もたっています。
明治に入り、天満地区ではガラス産業が活発となり、日本で初めてガラス製のビー玉を作ったのも大阪でした。
しかし、国内競争や輸入品に押されてしまい、2010年にはガラス工場がほとんどなくなってしまったのです。
そんな中、大阪府北区の老舗ガラス工場、宇良硝子加工所が切子工房RAUと名称を改め、大阪の新しい切子のブランドを立ち上げました。
それが、天満切子です。
一番の特徴は、江戸切子にも薩摩切子にもなかった新しいカット技術、U字カットです。
江戸切子や薩摩切子やシャープなV字カットを基本として様々な模様を彫刻していくのが特徴です。
対して天満切子は、重ねた色ガラスにU字カット(かまぼこ掘り)を施すことで、カットした模様が側面に映り込むという今までになかった美しさを作り上げました。
薩摩切子のような厚みのあるグラス底とU字カットの模様の真骨頂は、飲み物を注いだ瞬間にあります。
お酒を注ぐと、曲線に対して光の屈折が多く起こり、まるで万華鏡を見ているかのような美しい光を放つのです。
天満切子は鑑賞の美、用の美をテーマとしています。
見て楽しむだけではなく、日用品として使っても美しいという、今までの切子ブランドの良いところを集めた三つ目のガラス工芸です。
元々、大阪府天満地区はガラスの町だったので、現在は多くの飲食店やバーで早速天満切子が取り扱われています。
今までの切子にはない曲線彫刻の美しさ、飲むことを前提に計算された角のないカッティング、そして注いだ時の光の美しさは江戸切子、薩摩切子にも劣らない歴史と技術の結晶と言えるでしょう。
もちろん、天満切子が優れていて他が劣っているというわけではありません。
日本人の意匠をこらした新しいガラス工芸で、また私たちの生活に潤いと至福の瞬間が増すのですから、この暑い季節にに是非、手に取ってみてはいかがでしょうか。
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