戦国時代の最強剣豪ランキング15!日本一の剣豪は誰だ?

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どうも、近藤勇や坂本龍馬といった、幕末期の剣士を想像してしまいがちです。
この理由は次の通りだと思います。

  • 個人同士の斬り合いよりも、集団同士の「合戦」が有名だった。
    それにより、個々の戦闘力よりむしろ、大将(すなわち大名)の采配力に注目されがちだった。
  • 大道場で近代的な技を学べるようになって「剣の勝負」が有名になったのは江戸時代後半から。
  • 第三者による試合の記録が確かなものとして残るようになったのも江戸後期。

 

ただし、江戸時代は基本的には武士であっても 「人を斬れば自分も切腹は免れなかった」という時代です。

また剣術試合も竹の竹刀での勝負です。

真剣での勝負が当たり前であった戦国時代の剣士に、より凄みを感じますね。

今回、戦国時代の最強剣豪ベスト15を選んでみました。

 

幕末と比べると、「正確な記録」がハッキリ残っていない時代でもあるの、「知名度」がランキングの大きなところを占めます。

また、合戦での強さも、一人で乗り込んだ 「記録」が残っていれば選考基準としました。

 

第一位:二天一流 宮本武蔵(みやもとむさし)

天正12(1584)年~正保2年5月19日(1645年6月13日)

 

日本における「強い男」の典型強さの代名詞二刀流の代名詞そのものですから、文句なしでしょう。
そして(良くない時代ではありますが)戦艦の名前にもなった剣客はいません。

天下分け目の関ケ原」で闘った実績もあり、剣客にとって重要だった「知名度」がダントツでした。

 

これほどにまで有名になったのには、次のような理由がありました。

「コロンブスの卵」的な発想による「二刀流」

脇差はあくまでも切腹の為の刀であり、普段は使わないものと考えられていました。それに江   戸時代に入るまでは、脇差を持っていない武士も多かったと言います。

そんな中、祭りで太鼓が二本の撥を用いて叩かれているのを見た武蔵が、これを剣術に用いようと思い立ったとか。

しかし、一般的に2~3㎏の重さがあった大刀を片手で振り回すほどの腕力があった剣士は、武蔵以外にそう簡単には居なかったでしょう。

五輪書の無敗記録

武蔵自身が執筆した『五輪書』に記載された「六十余度の勝負に無敗(60回以上の対戦で負けなかった)」という記録。                                  但し、戦国時代以前の武士の自著は、敵の人数が実際よりも多く記載されているものが殆どです。自らの勇敢さを誇張する目的と言われています。それでも、真剣での勝負は勿論、木刀の試合でも、一本取られると確実に骨折し、当時の医療では剣道ができる程にまで治癒させられません。従って、負けたことが無かったのは事実でしょう。尚、有名な「吉岡一門との決闘」も、記録としては残っていません。

吉川英治の小説が大ヒットした

これは現代人にとって最も大きいかもしれません。

吉川英治の後でも、武蔵を描いた小説は数多く、「剣豪」というカテゴリーの中では、どんな時代でもトップでしょう。

勿論、吉川英治も「五輪書」や当時の書物があったからこそ、題材にできましたが。

例えば「幕末」カテゴリーでの知名度がトップが龍馬なのは、司馬遼太郎の影響が強い、という事実と似ています。

尚、武蔵の父・新免無二は、関ケ原の戦い以前に「軍師官兵衛」に仕えていた記録があることから、武蔵は父とともにこの戦に参戦した可能性が高いと言われています。

ただ、他の戦国剣豪の多くと違って、武蔵は弟子を持たなかったのが特徴とも言われています。

あまりにも強く、他の追随を許さなかったらしいのです。

従い、一刀流・新陰流・示現流・東軍流といった流派とちがい、“武蔵の剣の形”というのが残っていないことも、孤高の強者として見られたのでしょう。

第二位:新当流 塚原卜伝高幹(つかはらぼくでん たかもと)

延徳元年(1489年)~元亀2年2月11日(1571年3月6日)

有名人の「剣術指南役」になるとは、現代で言えば有名企業や官庁の要職としてヘッドハントされるのと似ています。

そんな時代、足利義輝と足利義昭という現役だった将軍二人、及び“県知事”ともいえる伊勢の国主・北畠具教に指南役として招かれたのは、卜伝が当時最も著名だった証左と言えます。

しかも足利義輝は、在任中に斬り合いで死んだ唯一の将軍です。

また、武田軍の軍師・山本勘助を弟子としたことにより、後世でも卜伝は有名になりました。

勘助は日本で最初の「軍学者」という地位を築いた人なので、彼が執筆した書物は教科書のような形で普及しました。

山本勘助著作の有名な『甲陽軍鑑』にある「無手勝流」が卜伝の代名詞でしょう。

勝負を受けたふりをして、船を小島に近寄せると、絡んできた相手が飛び降りて島へ急ぐ。

しかし卜伝は、なにくわぬ調子で、櫂を漕いで島から離れてしまう。取り残されたことに気付いた剣士が大声で卜伝を罵倒する。

しかし卜伝は高笑いしながら「戦わずして勝つ」と言って去ってしまった。

 

山本勘助が好んだ「孫子の兵法」に依拠する可能性もあり、実際にあった話かは不明ですが(笑)

一方、「武蔵が切り込んできたとき、食事中であった卜伝は鍋の蓋で受け止めた! だから武蔵は降参した」という逸話は作り話です。

1571年没の卜伝は、1584年生まれの武蔵とは、この世では出会う事すらできません(笑)

また、「真剣試合19度、戦は37度、すべて無傷で勝利。数百度で傷なし」についても、卜伝自身が語った内容が、弟子の加藤信俊を通じて加藤の孫が『卜伝遺訓抄』に記したものです。

よって客観性と正確さはイマイチです。

とはいえ、川越城下で梶原長門と真剣で対決して勝利したのは信憑性があり、この勝利によって剣豪としての知名度が高かったのは間違いありません。

第三位:一刀流 伊藤一刀斎景久(いとういっとうさいかげひさ)

天文19(1550年)又は 永禄3(1560)年~寛永5(1628)年 又は 寛永9(1632)年

後世に技術を残し、そしてその流派が隆盛した、という面で特筆されるべき剣豪です。

強くなることができる教え方を残したから強かった、有名になった」ということです。

「一刀流」という流儀の名は、門人たちが一刀斎の名にあやかってつけました。二刀流に対する一刀流、という由来ではありません。

江戸時代、一刀流は、小野派一刀流・唯心一刀流という分派を含めてとても隆盛しました。茶道で言えば「千家」のようなものです。

そして、小野派一刀流の分派の分派が、坂本龍馬らが学んだあの「北辰一刀流」です。

『一刀流歴代略』という書物では、一刀斎は諸国遍歴して33度勝負した無敗、と記されています。

勝利の数は武蔵や卜伝に次ぐものですが、この書物は弟子たちが記録したものなので、客観的事実が書かれていたかどうかは判らないようです。

後に有名な言葉となった「夢想剣」(鶴岡八幡宮に籠っていたときに無意識に敵を斬って悟った)も、一刀斎の教えに関連した伝書に記載されていた話です。

『卜伝遺訓抄』と似たように、門人が記載した書物ゆえに、誇張されている可能性が高いでしょう。(尚、ここにかかれている「逆襲したときに生まれた払捨刀」とは、愛人に欺かれて刺客に寝込みを襲われたときの話だそうです。)

 

第四位:新陰流  上泉伊勢守信綱(かみいずみいせのかみ のぶつな)

永正5(1508)年 – 天正5年1月16日(1577年2月3日)

その流儀は徳川幕府の「御家流」となり、江戸期に「剣聖」と謳われました

また、「袋竹刀」を発明したのも信綱と伝えられています(『桂萱村誌』)。

信綱は55歳のとき、北畠具教(”戦国剣豪第二位” である、塚原卜伝の門下)から、奈良宝蔵院の胤栄(槍の名手)の話を聞きました。

そして奈良へ向かって立ち会って勝ちました。またその奈良で柳生宗厳に試合を申し込み、勝利しました(『正伝新陰流』の記録。)試合相手の柳生宗厳が弟子になったことから、試合には竹刀が使われ、怪我をしなかったと言われています。

また信綱は、剣豪であるのみならず、合戦の強者でもありました。

『撃剣叢談』によると、上杉謙信の配下であった長野業盛に仕え、武田信玄・北条氏康の大軍を相手に奮戦し、「槍のナンバーワン」としての感状を貰っています。

これは子孫や弟子の言い伝えではなく、撃剣叢談という江戸時代後期の専門書に記載された話なので、一定の信憑性はあるでしょう。

第五位:大和柳生新陰流 柳生石舟斎宗厳(やぎゅうせきしゅうさい むねよし)

大永7(1527)年~ 慶長11年4月19日(1606年5月25日)

天下の徳川家のお抱え剣術指南役であり、また新陰流・上泉信綱(剣豪第四位)から皆伝を認められたのですから、一流であったこと、間違いありません。

柳生庄の領主の嫡男として生まれ育ちました。この点、若い頃から武者修行をしていた他の多くの剣豪とは若干違った生い立ちといえるでしょう。

柳生家のいた大和を治めていたのは筒井順慶、その後は松永久秀。権謀術数が有名な大名であったがゆえに、戦国時代にはさほど流行していなかった剣術を、率先して学んだのかもしれません。

宗厳の父は、筒井家の家臣時代にあの有名な島左近勝猛と同僚でした。その縁で、左近の娘を妻にしています。つまり、宗厳にとって左近は母型の祖父です。

そして上泉信綱に試合を申し込まれたこと自体が、宗厳は大和の国ではある程度著名であったことを示しています。

「無刀取り」が家康の目に留まった、との有名な逸話があります。しかし、この話の出所は柳生家の家伝のような書物であり、徳川家などに記録されている訳ではありません。

ただ、宗厳の子孫が德川将軍家を初め多くの大名家の剣術指南役に出世したというのは、その実力が認められたがゆえと言えるでしょう。

また門下の一人であった小栗正信は、土佐で小栗流の道場を開きました。土佐の小栗流には、二百数十年後に坂本龍馬を始めとする志士たちが入門しました。

 

第六位:示現流 東郷藤兵衛重位(とうごうとうべい しげかた)

永禄4(1561)年 ~ 寛永20年6月27日(1643年8月11日)

偉大な師に学び、薩摩隼人の代表的流儀の開祖となりました。

新陰流・上泉信綱の門下であった丸目蔵人佐の開いたタイ捨流を学びました。

つまり、“戦国剣豪第四位” 上泉信綱の孫弟子とも言えるでしょう。

その後、主君・島津義久に従って上洛した際には、京都寺町の天寧寺で僧・善吉に出会い、天真正自顕流を学びました。

そして帰国した天正17年(1589年)以降、二つの流派に独自の創意工夫を加え、一流を編み出したといわれています。

ただ、「示現流」の名は、江戸時代になってから日向の禅僧・南浦文之に命名されたものです。

慶長9年(1604年)、島津忠恒の御前試合では、タイ捨流の剣術師範を破りました。この時、逆上した忠恒が斬りかかったものの、重位は腰に差していた扇子で忠恒の手を打ち据えてかわしたという逸話があります。またこの試合の勝利により、藤兵衛は島津家兵法師範となりましたが、示現流が島津家の御家流となったのは1800年以降と記録されています。

とはいうものの、徳川家における新陰流の地位を、島津家で築いたわけです。実力の高さを示しているでしょう。

示現流の特徴は、初太刀から勝負の全てを掛けて斬りつける『先手必勝』の鋭い斬撃で、「髪の毛一本でも早く打ち下ろせ」と教えられます。

この為、幕末には新撰組の近藤勇ですら「薩摩者と勝負する時には初太刀を外せ」と隊士に命じていました。

実際には、薩摩の下士たちの「薬丸自顕流」の特徴と示現流とを近藤、いや混同していたようですが(笑)、剣劇専門部隊の新撰組を最も恐ろしめた流儀であったのは事実でした。

尚、薩摩では室町時代から二つの系統の「東郷家」があり、有名な東郷平八郎は別の系統です。

 

第七位:林崎夢想流居合 林崎甚助重信(はやしざきじんすけしげのぶ)

天文11(1542)年? ~ 元和3年(1621年)

 

偉大な師に絶賛され、居合の始祖となりました。

確かな記録は残っていないながらも、父の敵討ちで有名です。

剣術そのものの源流である「京八流」の一つである「鞍馬流」の伝書に、甚助は二代目師匠と記されていました(しかし残念ながらこのこの流儀の伝書が第二次世界大戦の戦災で焼失してしまいました。)また、“戦国剣豪第二位”の塚原卜伝から、秘伝の剣と太刀を授かったといわています。

実際の試合や斬り合いの記録は残っていませんが、無双直伝英信流・民弥流・水鴎流といった神夢想林崎流から分かれた多くの流派が甚助を初代としていることは、強さについての客観性があります。

また、林崎甚助に教受された弟子たちの業を見聞きした武芸者や修行者が独自に居合を創作する例もあるなど、居合(抜刀術)の始祖として非常に強い影響力を及ぼしています。

有名な弟子としては、居合の達人として甚助と共に双璧と言われる片山久安や、現代にも伝わる田宮流の田宮重正ら、「五大高弟」がいました。

甚助の生まれた出羽の国(現・山形県)は羽黒山の山伏で有名であり、また甚助の時代には僧よりも山伏の方が一般的であった時代でした。

従って「明神が抜刀の秘術卍抜を伝えた」など、山岳信仰じみた話が多く残っています。ただ、山伏のように山岳での修行をしたゆえに、他を圧倒する実力に繋がったと考えられます。

 

第八位:鐘捲流 鐘捲 自斎(かねまき じざい)

門下生の強さが光っています。

伊藤一刀斎の伝承「一刀流極意」では、“戦国剣豪第三位” の一刀斎が諸国修行中に自斎に師事したとされています。その当時は、自斎は中条流を教えたようです。

中条流は、“戦国剣豪第七位”の林崎甚助が修めた「鞍馬流」と同じく、「京八流」の一派と言われていました。

自斎が入門したのは、越前朝倉氏の剣術指南役・富田勢源で、ここで「富田の三剣」と呼ばれていました。有力大名の指南役の元で三本の指に入るには、相当な腕が必要でした。

試合の記録などは残っていませんが、伊藤一刀斎以外にも第十五位の佐々木小次郎などが弟子であったことから、その実力は相当なものでしょう。

生没年は伝わっていませんがこうしたことから、自斎は1520年前後の生年ではないかと考えられます。

尚、鐘捲流を継承した米沢の中村氏家は、のちに仙台伊達家藩主の護衛役に抜擢されました。

德川将軍家や島津家に肩を並べるほど武勇の家である伊達家に認められたほどの流儀でした。

 

第九位:東軍流 川崎鑰之助

その流儀が、篠山藩、水戸藩、古河藩、松代藩、吉田藩、赤穂藩、岡山藩、鳥取藩、高松藩、中津藩、対馬藩など、全国に広まりました

鑰之助は、”戦国剣豪” 第八位の鐘捲自斎と同じく越前に生まれで、師も同じく中条流の富田勢源です。

朝倉氏に仕えていた父の川崎新九郎は、中条流の達人だったと伝えられています。鑰之助は富田に入門前は父から剣を学び、更に槍術も学んでいました。

そして17歳で、朝倉の「鬼若三勇士」と数えられた点も、第八位の鐘捲自斎に似ているかもしれません。

そして朝倉家が織田勢に滅ぼされた後は、比叡山の東軍権僧正のもとで秘伝を学びました。これが周囲から「東軍者」と呼ばれるきっかけといわれています。

またその後、上野国(現・群馬県)妙義山の神に祈って東軍流を起こしたと、日本最古の武芸列伝(1716年(享保元年)版行)に残っています。

尚、タイ捨流免許皆伝の歴史家・加来耕三は、鑰之助の子孫です。

 

第十位:薄田兼相(すすきだ かねすけ)

生年不詳~ 慶長20年5月6日(1615年6月2日)没

三大仇討に次ぐともいわれることがある「天橋立の仇討ち」で見事父の仇を討った岩見重太郎。剛勇の武将として知られ、兼相流柔術や無手流剣術の流祖とされています。

毛利元就の次男で猛将として知られた小早川隆景に剣術指南をした、岩見重左衛門の二男として誕生しました。

仇討ちというものは、殆どの場合、仇を探し求めて諸国を乞食道中のように経巡らねばならないものです。

時代劇に出てくるような旅籠が完備されるのは江戸時代中期以降であり、それ以前は木賃宿でもあればいいほうで、旅人は野宿を余儀なくされていました。

つまり、仇にたどり着く前に、野伏や追剥を倒すだけの腕が必要とされ、仇討ちの旅に出るというだけで相当の腕前を必要としていました。

秀秋の時代に小早川家が減封となると、重太郎は薄田兼相の名で秀吉に仕え、3,000石の馬廻り衆として抜擢されました。

既に太閤となっていた頃の秀吉が最初から3000石もの高禄で召し抱えたのは、それだけの剣の実力が認められていたからでしょう。

後の大坂冬の陣では、遊郭に遊びに行って留守にした間に砦を德川方に陥落された話が有名です。

一説によると淀殿は大広間に兼相を呼び出して大勢の女官で囲い、「橙武者(正月飾りにしか使えない、つまり見かけ倒し。)と呼んで女官たちに笑わせたといいます。

夏の陣では、この侮辱を雪ぐべく、一手の大将でありながら乱戦の中で本多忠政勢に飛び込み、自ら槍をとって十人近くの敵兵を倒し、討死を遂げました。

 

第十一位:後藤又兵衛基次(ごとうまたべえ もとつぐ)

永禄3年4月10日(1560年5月5日)~慶長20年5月6日(1615年6月2日)

 

侍大将や豪傑としても有名だが、早くから「黒田二十四騎」「黒田八虎」と称されたのは剣や槍の腕前を見込まれてであり、特に関ケ原では槍で大活躍しました。

一旦黒田家を追放されていましたが、秀吉による九州征伐の最中に復帰し、文禄の役(朝鮮出兵)においての戦果が他の大名にも有名になりました。

朝鮮半島の晋州城を攻める際に、加藤清正の猛将・飯田覚兵衛とともに装甲車を作って城壁を突き崩したのち、同じく加藤家の森本義太夫の一番乗りに次いで二番乗りを遂げました。

ちなみにこの時二番になったのは、城壁を登っていた最中、一番上を進んでいた又兵衛の褌を飯田覚兵衛が引っ張って足止めし、同じ加藤家の森本義太夫の一番乗りを援護したからだという説があります。

その後の関ヶ原の戦いでは、石田三成が誇っていた槍の名手・大橋掃部を一騎討ちで討ち取るなど、黒田家で最大の武功を挙げました。

追放から戻った新参でありながら、主君の支城を預り、且つ1万6千石もの所領を与えられたというのは、如何に戦果が華々しかったからかを示しています。

その後、黒田家を退転した話も有名ですが、その後の大坂の冬の陣では、閲兵式の指揮で「摩利支天の再来」と称されました。

敵の大将である家康も又兵衛の実力を見込み、五十万石を与えるから寝返らないか、と密使を送ったといわれます。

 

第十二位:森本義太夫(もりもとぎだゆう)

永禄3(1560)年~慶長17年(1612年)

豊臣家で、福島正則と並ぶ猛将の双璧といわれた加藤清正、その重臣なれば、強者でなければ務まらないのは一目瞭然です。

義太夫は摂津国で、森本一慶の子として生まれました。清正よりは二つ年上です。

一説によると、秀吉が城主であった長浜城で清正と共に雑役を務めていた少年時代、木剣の試合をして勝った方が主君になると賭けたそうです。

義太夫も流石に清正には敵わず、清正が没するまで主従関係は続きました。清正に挑むというだけでも凄いのですが、天正11年(1583年)の賤ヶ岳の戦いにおいても清正の先鋒として活躍した記録があります。

つまり、有名な「七本槍」の武功は、義太夫に依るところが大きいとも言えます。

それもあって、飯田覚兵衛や庄林一心とあわせ、「加藤家三傑」として諸大名にも有名になりました。

朝鮮出兵における武勇談は、第十二位・後藤又兵衛の項で述べた通りで、いずれが一番乗りかという以上に、どちらも猛者であったと考えてよいかと思われます。

尚、義太夫の死後、次男・一房は平戸の大名・松浦氏に仕官し、寛永9年(1632年)、カンボジアへ渡りました。

当時カンボジアは南天竺と呼ばれ、日本ではアンコールワットが祇園精舎であると誤解されていた為、一房は義太夫の霊を弔うために回廊の柱に墨書(落書き)をし、現地の記録にも残っていました。

 

第十三位 可児才蔵吉長 (かにさいぞう よしなが)

天文23(1554)年~慶長18年6月24日(1613年8月10日)

豊臣家猛将として加藤清正と共に併称された福島正則の下で、武将というより一兵士でした。

関ケ原の時には既に46歳と、当時としては高齢になっていましたが、武の友である梶田繁政と共に雌雄を争い励みました。

宇喜多秀家の陣の奥深くへ攻め入って首級を挙げただけでなく、側面の大谷吉継隊にも回り込み、雑兵には目もくれず、一見大将クラスと思われる敵ばかりを目指して梶田とともに首級を互いに取り徳川家康の本陣へ持ち帰りました。

わざわざ家康の本陣まで持帰ったのは、徳川家康からの賞賛を得る為ではありましたが、戦国時代の武者にとって戦場でのこうした行為はおべっかには該当しませんでした。

福島家の公式記録には「先陣を進み、槍を合わすこと二十八、敵の首を捕る事二十騎、言語道断古今無し」つまり、先陣をきり二十人の敵の士分の首を取ったとあります。

東西両軍合わせて二十万近くが陣を張ったこの戦においても、一人で二十人の首を取った侍は東軍大将・家康の知る限りでもトップクラスだったそうです。

 

第十四位:本多平八郎忠勝(ほんだへいはちろう ただかつ)

天文17年2月8日(1548年3月17日)~慶長15年10月18日(1610年12月3日)

 

最終的に戦国の世を制した徳川家での最強の猛者は、豊臣秀吉に「日本第一、古今独歩の勇士」といわしめ、織田信長には「花も実も兼ね備えた武将である」と言わしめた、本多忠勝でしょう。

初陣以来の歴戦合計57回に及んだものの、かすり傷一つも負わなかったとの伝承が『朝日日本歴史人物事典』(朝日新聞社編)に残っています。

特に姉川の合戦(1570年)での働きは凄まじいものだったと言います。

朝倉軍1万が家康の本陣に殺到しようとした際、忠勝は単騎、敵に向かって突撃し、朝倉軍の豪傑・真柄十郎左衛門(その後乱戦になり、織田家の青木所左衛門が討ち取りました)と一騎討ちとなり、その勇ましさ・強さが敵味方に有名になりました。

戦場に出て敵と戦う時の槍働きは古今無双でしたが、大名になった後の閲兵などでの槍術は不器用で、戦場での忠勝を見たことが無い人には「これがあの猛将の本多忠勝か?」と意外に思ったそうです(平戸藩に伝わる『甲子夜話』。)

 

第十五位:巌流 佐々木小次郎

生年不詳 - 慶長17年4月13日(1612年5月13日)

 

巌流島の決闘は、一対一ではなかった可能性があります。

最大の理由は、有名な決闘の逸話は、信憑性が低いからです。理由を挙げますと、

  1.  武蔵の伝記(二天記)が書かれたのは、武蔵の死後130年経った1776年。普通の伝記に比べて著しく時間が空いており、不自然。
  2. 二天記がよりどころとした『武公伝』(1755年成立)には、虚偽ともいえる記載内容がある。小倉商人の村屋勘八郎が、試合の日の話を正徳2(1712)年に語ったという。試合は1612年であり、当時の人が100年後まで生きて証言できたとは考えられない。
  3.  武蔵が一対一で勝ったと、『武将感状記』(熊沢淡庵)にも記載あるが、これは逸話集なので事実を確認する資料としては信憑性低い。
  4. 『二天記』は小次郎の年齢を決闘時18歳としているが、これは有得ない。中条流の富田勢源の弟子であったとすれば、決闘時に最低でも70歳以上、鐘捲自斎の弟子であったとすれば50歳以上となる。(『武公伝』と『武将感状記』は、小次郎の年齢に触れておらず、不自然である。)
  5. 仮に、富田勢源からも鐘捲自斎からも学んでいなかったとしても、18歳で細川家の剣術指南役になっていたとは考えれない。

従い、その他の記録として『西遊雑記』(1783年古川古松軒)と、細川家家老の家で記された『沼田家記』(1672年完成)の二つを見てみますと、「宮本武蔵が一対一の約束を破って門人数人を連れて島に渡った」 という話が共通しています。

西遊雑記』の記録では、周りにいた民衆が「岸龍」をとどめたが、しかし岸龍は、武士が約束を破るは恥辱、と言って武蔵とその門人たちに一人で挑んだ、となっています。

また『沼田家記』では、「決闘では武蔵は小次郎を仕留めることができず、小次郎はしばらく後に息を吹き返し、その後武蔵の弟子らに撲殺された」と記録されています。

これらを総合すると、高齢で実績があった小次郎(大大名の細川家が剣術指南役に選ぶ以上、一流の遣い手)に対して、武蔵は一対一では勝ち目がないと考えた可能性があります。

そしてそれでも倒そうとしたのは、高齢の小次郎さえいなくなれば細川家に採用されると見込んでいた、或いは小次郎を倒すことを細川家側から示唆されていたのかもしれません。

事実、決闘後に武蔵は細川家筆頭家老の松井佐渡守の推挙で仕官し、優遇されました(細川家の松井と沼田は、家老同志で権力争いをしていた可能性があり、武蔵と小次郎は代理戦争だったかもしれません)。

いずれにせよ、武蔵が晩年の様に無敵になる前とは言え、これほどまでに恐れられた小次郎の腕前は、相当に高かったと言えるでしょう。

以上、戦国時代の最強剣豪ランキング15をまとめてみました。

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