新選組志士一覧!生き様・経歴・関係性をまとめてみた

歴史ファンには、新選組を好きな人も多いかと思います。

新選組を題材にした小説やドラマは数多く、小説では司馬遼太郎の『燃えよ剣』は有名ですし、テレビドラマでは2004年の大河ドラマの題材にも選ばれています(脚本は三谷幸喜)。

 

しかし、歴史的に考えますと新選組が幕末の歴史に与えた影響というのは、実はほとんどありません。

全国の新選組ファンを敵に回すことをあえて言いますが、そもそも新選組は、関東で職にあぶれた浪人たちが旧幕府にリクルートされ、薩摩・長州等いろいろの勢力が入り込んで危険極まりなかった京都の警備を担当させられた、寄せ集めの愚連隊のような人たちです。

そうはいっても、新選組への人気は、確固たるものです。

その理由は、結果的に歴史的に何の影響も与えず、また重要な役割を果たすこともなかったことは事実であるにしても、新選組に加わった志士たちは、あくまで自分の意志で新選組に加わったのであり、自分の判断でその時々の身の振り方を考え、自分の命をかけて自分の決断に忠実に行動したから、ということができるでしょう。

組織の一員として、容易に代替の効く歯車の一つとして自らの極力押し殺して物事を右から左にこなしている現代人の多数からすると、新選組のメンバーの躍動した生き方に、引き込まれてしまうのだと思います。

というわけで、この記事では、新選組に所属した主なメンバーの生きざまを個々に追っていくことを徹底的に試みたいと思います。

 

新選組に集った志士たちの生きざま

局長 近藤勇 (こんどう いさみ)

Kondo Isami02.jpg

1834年、今の東京都調布市の百姓家に生まれました。

記録によると、近藤の生家は7石(大人が1年間に食べる米を1石といいます)を取れる土地を持つ百姓家で、7石の米がとれる田は大体7反歩(0.7ヘクタール)に相当するといわれますので、そこそこの経済力があった農家だったようです。

近藤の生き方を考えるうえで、調布界隈に生まれたということはとても大切な意味を持ちます。

家康以来、八王子には「八王子千人同心」という兵士たちが、有事の際に小仏峠の守備に当たるべく配置されていました。八王子を含む多摩郡は、幕府直轄領や旗本領とされ、農民に対する支配も比較的緩く、徳川家による保護を受けた土地だったといいます。

近藤勇の一貫した徳川幕府に対する忠誠心は、このような背景があったものと思われます。

1848年、天然理心流剣術の道場、試衛場に入門します。1860年、天然理心流宗家四代目を襲名。新選組での活動を始めた後も、天然理心流の門人の人脈を使った資金調達などを行っていた模様です。武芸の達人として多摩郡界隈で名を挙げた勇は、日野・町田の名主と深い関係を結び、若くして土地の名士としての地位を着々と築いていきます。

おりしも、1863年に将軍徳川家茂上洛に合わせて、武術に優れた者であれば身分・年齢を問わず参加できる将軍警護のための武装組織「浪士組」が企画され、近藤勇はこれに参加します。この浪士組に、のちの新選組副長土方歳三も参加しました。

副長 土方歳三 (ひじかた としぞう)

Hijikatatoshizo.jpg

1835年、今の東京都日野市の豪農の家に生まれました。日野市もまた、近藤勇の出身地調布市と同様徳川家の保護を長年受けてきた地域で、土方の親幕的思想のバックボーンは、近藤と同じものと思われます。

内部抗争に明け暮れた新選組にあって、近藤ー土方のラインの結束は大変に強いものがありました。

新選組の根っこの部分には、多摩の領民の徳川家への愛慕の想いがあったのではないかと思います。

土方は江戸上野の呉服屋で奉公していたようですが、その後各地の剣術道場に出入りし、修行を重ねていったようです。

土方の姉・のぶは日野宿名主佐藤彦五郎に嫁いでおり、彦五郎は天然理心流に入門し、自宅に道場を開いており、天然理心流の宗家四代目を継いだ近藤勇と佐藤彦五郎は深い関係にありました。

その関係で、土方は近藤と知遇を得たようです。1863年、徳川家茂上洛警護のための「浪士組」に、近藤勇とともに参加します。

壬生浪士組の発足

江戸から京都にたどり着いた「浪人組」の一行は、そのリーダーである庄内藩出身清河八郎から、「浪士組の真の目的は、将軍徳川家茂の警護などではなく、尊王攘夷の先兵として働くことにある。」との演説を聞かされます。

無茶苦茶な話なのですが、そもそも「浪士隊」そのものが、お尋ね者も水呑百姓も誰でも歓迎、という無茶苦茶な組織なのですから、まぁ、あり得ない話じゃないかな、という感じです。

これを聞いて、徳川大好きの近藤勇・土方歳三はとてもついていかれないと反発。「浪士隊」を離れます。

「浪士隊」を離れた一団がもう一派いました。それは、「芹沢鴨(せりざわ かも)」という浪士率いる水戸藩出身の一派です。

(実は初代総長だった) 芹沢 鴨 (せりざわ かも)

芹沢鴨の前半生について、あまり詳しいことはよくわかっていませんが、水戸藩出身の人物であったことはわかっています。

1858年、「戊午(ぼご)の密勅」が孝明天皇から水戸藩に直送されるという大事件が起きます。

「戊午の密勅」は、およそ3項目からなっていました。

  • 勅許なく安政五か国条約に調印したことを叱責し、ことの経緯の詳細な説明を命ず。
  • 徳川御三家及び諸藩は幕府に協力して公武合体に協力し、幕府は上位推進のための幕政改革を遂行せよ。
  • 上記2つの命令を水戸藩から諸藩に伝達せよ。

これは、徳川家康以来の朝廷=徳川家の関係からすると、全く異例の文書でした。

というのも、建前上、天皇は徳川家を征夷大将軍に任じて、徳川将軍は、天皇の委任を受けて国政を全面的に司っていたわけなのですが、孝明天皇は、直接に国政を委任していたはずの徳川将軍をスキップして、将軍の臣下である水戸藩主にこのような密勅を下したのです。

これは、朝廷側のあからさまな徳川将軍家への挑戦でした。

この密勅を受けた水戸藩内では、水戸藩主に忠実な尊王攘夷派と幕府との関係を重視する門閥派とに分かれて激しく対立していましたが、尊王攘夷派は密勅通り、勅書を水戸藩の責任において諸藩に回送すべきであると主張、門閥派は逆に密勅書を朝廷に返納すべきであると主張しました。

このような対立の中、水戸藩内では勅書返納に反対する藩士や領民が決起、密勅返納反対運動が盛んとなりました。

芹沢は、1860年、この密勅返納反対運動に参加するため、水戸の尊王攘夷の一派「玉造勢」に加わったようなのです。

近藤や土方が比較的素朴な徳川家への親近感ないし忠誠心を基底に動いていたのに対し、芹沢の思想のベースはあくまで尊王ー天皇への忠誠ーでした。水戸藩には水戸学という一種の儒学が広く浸透しており、おそらく芦沢もこの思想の影響を受けていたのでしょう。

壬生浪士隊、会津藩お抱えとなる

「会津城」の画像検索結果

清河八郎の勤皇攘夷演説に反発し、「浪士組」を離れた近藤・土方・芹沢らは、17人の連名で、嘆願書を提出し、この結果会津藩は彼らを「お預かり」として処遇することを決めました。

「お預かりとして」の処遇とはなんのこっちゃ、ということですが、簡単に言えば「嘱託」のようなイメージだと思います。

何はともあれ、ここに芦沢・近藤等は会津藩のバックアップを得たのです。会津藩は、当時新幕府派側の有力大名で、非常な権威がした。この会津藩につながりを持てた、とうことで彼らは自らを「壬生浪士隊」と呼ぶようになります。これが1863年3月10日。

壬生浪士隊の局長には、芹沢・近藤らが就任しますが、芦沢はこの筆頭となります。

近藤、芹沢を暗殺する

とはいえ、ほどなく芹沢は近藤派の組員の暗殺を受けて死にます。

1863年9月16日のこと、新選組は芸妓総揚げの宴会を開いて、さらに土方らは二次会に芹沢を誘い出し、その場に芹沢なじみの妾お梅を待たせておいて、二人でぐっすり寝かかったところを数人の男でもって暗殺したといいます。

この暗殺の原因として、芹沢の乱暴狼藉が目に余って会津藩からも相沢を始末するように命じられていた、という風にも言い伝えられています。

しかし、私は、この暗殺の原因は近藤と芹沢の権力闘争の結果であると思います。もし、芹沢に非があることが世に広く知られているなら、堂々と犯罪者として始末すればよかったわけです。ところが、この事件は「長州藩士」による策略ということにされ、芹沢は新選組によって盛大な葬儀で葬られたのです。

八月十八日の政変と新選組の活躍

若干時間は戻りますが、1863年8月18日、それまで外国艦隊への即時攘夷をも辞さない長州派が宮中に非常に強い影響力を持っていたのを、孝明天皇、佐幕派の会津藩主、幕政改革・開国攘夷派の薩摩藩が武力で京都から長州藩勢力を追放した事件が起きました。これを八月十八日の政変といいます。

この時、会津藩配下の壬生浪士組は「御花畑門」の警備担当となったのですが、その時の働きが認められて朝廷より「新選組」の名を賜りました。(浪士組よりは大分格好がよくなりましたね…)

1863年10月10日、会津藩は京都の料亭で雄藩を集めた宴席を設けているのですが、近藤もこの席に招かれています。

八月十八日政変以降は、京都をいわゆる公武一体派が掌握するに至ったのですが、この時朝廷を支配した「一会桑政権」(一橋慶喜の「一」、会津藩の「会」、桑名藩の「桑」から取られる)の実力部隊として、新選組は公のポジションを固めていきました。

新選組の名を高めた池田屋事件

池田屋跡

八月十八日の政変で京都を追われた長州藩をはじめとする尊王攘夷派は、京都内に潜伏して勢力挽回をもくろんでいました。

新選組は、その遊撃隊的な性格を活かして会津藩から京都市内の尊王攘夷派勢力の捜索を命じられていました。

1864年5月下旬、古高俊太郎という長州に連なるスパイの存在を突き止め、捕縛して自白を強要。その自白内容は、「祇園祭の前の風の強い日を狙って火を放ち、その混乱に乗じて中川宮朝彦親王を幽閉、一橋慶喜や会津藩主松平容保を暗殺、孝明天皇は長州に連れ去る、という計画がある。」というものでした。

長州閥がその筋書き通りに事を運べたか否かは全く不明です。

しかし、不穏な動きは着々具体化しつつあり、長州藩・土佐藩・肥後藩らの尊王派が、集まって古高俊太郎奪回計画を協議する会合が持たれることが分かったというのです。

そこで、1864年7月8日、22時過ぎに近藤隊は数名で池田屋に突入し、次いで土方隊が池田屋に到着、戦いにを優位に進めました。

結局、池田屋事件における戦果は打ち取り7人、負傷者4人、捕縛23人の大成果を上げ、朝廷・幕府・会津藩から感状(戦功をたたえる賞状)と200両の恩賞を下賜されれました。

ある意味で、この時が新選組の最も輝いていた時期ということができましょう

新選組の近代化改革

170216 Nishi Honganji Kyoto Japan03s4.jpg

(新選組拡大後、新たに屯所とした西本願寺)

今までお話してきたように、新選組(そしてその前身の「壬生浪士組」)は、前科者も水呑百姓も誰でも歓迎、という、いわば「烏合の衆」でした。

しかし、1864年7月の池田屋事件により新選組の功績が広く朝廷・幕府・雄藩に知られ、資金の融通もつきやすくなりました。また、近藤・土方は10月に新選組の一方の派閥のリーダー芹沢鴨の暗殺に成功し、新選組における多摩郡出身者の優位を確立することができました。

おりしも、1864年7月23日には、朝廷は幕府に対して長州追討の勅命を発したため、近藤等は会津藩配下の新選組も長州追討を命じられることを想定し、組織の近代化に着手しました。

まず、1864年9月、近藤勇は江戸にもどり第二次新選組隊士を募集、隊員は約200名を数えました。

多数の隊士を統率するため、局長・近藤勇=副長・土方歳三の配下に、十人の副長助勤を置き、それぞれの副長助勤は10名前後で構成される一番隊から十番隊までを統率することにしました。

この組織の体系は、江戸幕府の伝統的な役職制度と性格を異にしています。

江戸幕府の各種役職は、月番制といい、複数の役職者が同じポストを月ごとに後退して担当するのが通例でした。

ところが、新選組では、そのような考え方はなく、近藤は常に局長、土方は常に副長とされていました。

これは新選組が西洋軍式に倣った結果ではないか、といわれています。

200人の隊員を獲得しえた新選組は、それまでの壬生の屯所が隊員の収容に手狭になってきたということで、西本願寺に移動をしました。

そして西本願寺に屯所を移動した新選組は、移動した西本願寺境内で大砲や小銃の訓練を行い始めました。この訓練は、当時の幕府陸軍に倣ってフランス式で行われました。

なにか、皆さんの夢を壊すようで申し訳ないとも思いますが、新選組は時代の趨勢に応じて鉄砲でも大砲でなんでも調達して訓練をしていた、大変に合理的な組織だったのです。

そして、この時期近藤勇が江戸に隊員のリクルーティングに出かけていたことを考えると、新選組の近代化を推し進めたのは副長・土方歳三であると考えられます。

参謀 伊藤甲子太郎 (いとう かしたろう)

近藤勇が第2次の新選組隊員リクルートで、勧誘に成功したビッグネームが、伊藤甲子太郎です。

伊藤は1835年に常陸国志築藩の藩士の家に生まれ、近隣の水戸に遊学、神道無念流剣術を学び、また水戸学を学び勤皇思想に傾倒します。

後に、江戸深川の北辰一刀流の道場に入門すると、道場主の伊藤誠一郎に力量を認められて婿養子となったということです。

伊藤が最初神道無念流に学び、次いで北辰一刀流に学んで、道場主伊藤誠一郎の婿にまでなったことは、彼を特徴をよく示している事実と思います。

当時、剣術諸派や仏教や神道などの宗教色を剣術に織り交ぜ、指導法が神秘的で初学者にはわかりづらいきらいがありました。他方、北辰一刀流は儒学の学習を合わせて行うことを門下生に奨励し、教授法も合理的で、他流派で10年かかるレベルに達するまで、北辰一刀流では5年を要さなかったといわれます。

そのような、ある意味でアカデミックな背景を持った伊藤は、やはり近藤勇にも知性派の有能な人材として評価されたようで、伊藤は新選組入隊に当たり「参謀兼文学師範」として招かれたのです。

伊藤の陰に失脚した 総長 山南敬助(やまなみ けいすけ)

山南敬助1

華々しく伊藤甲子太郎が新選組に加入しながら、一人ひっそりと新選組を追われようとしている男がいました。

彼の名前を山南敬助といいます。

山南は、元々仙台藩士を脱藩して江戸に出て、小野派一刀流の免許皆伝を得、北辰一刀流の千葉周作の門人となったということです。

近藤勇の属する天然理心流道場・試衛館に他流試合を挑んだ際、近藤に敗れ、近藤の腕前や人柄に感服し、以降近藤につき従うようになったといいます。

近藤・土方とともに「浪士隊」、「壬生浪士組」に属し、芹沢の粛清の後、「総長」という地位を与えられます。

ところが、この「総長」という地位、聞こえはいいのですが、いわば「部下無し管理職」のようなもので、一応近藤局長、土方副長につくNo.3の立場と位置付けられたのですけれども、土方以下に10人の副長助勤が置かれ、実際の組織を掌握しているのに対し、山南総長には実質的な権力が、何ら与えられていませんでした。

他流試合に出かけて負けていった相手に「心服」して、従ってしまうような人なので、権力闘争に向いていない人だったのかもしれません。

山南の人物を伝えるエピソードで壬生界隈に伝わっているエピソードで「親切者は山南・松原」との言葉が伝わっています。また、壬生時代幹部の宿所だった八木家の子八木為三郎は、「子どもが好きで、どこで逢ってもきっと何か声をかけてくれた。」との証言を残しています。

山南は、伊藤と同じ北辰一刀流の出身で、同時代人からも「文武両道の人」と評価される知識人でした。

しかし、同じような役割を期待されて伊藤甲子太郎は、「浪士隊」以来の古株である山南より格上の「参謀」職で迎え入れられてしまったのですから、もはや山南に居場所はありませんでした。

山南に対しては、8月18日の政変の際の警護の時、甲冑を与えられなかったといいます。

いくら近藤につき従っていたところで、近藤と土方は同じ多摩の農民出身という同じアイデンティティに結ばれています。そんな近藤と土方にとって、所詮仙台藩士出身の山南は、よそ者だったのでしょう。

近藤や土方を美化する人々が多いですが、近藤と土方の山南に対するあしらいは、あまり褒められたものではないと思います。

結局1865年2月、山南は脱走します。近藤と土方は、狡猾にも山南が弟のようにかわいがっていた沖田に山南を追わせます。

結局、京都を去って大津で捕縛された山南は、新選組の屯所に連行され、切腹を命じられました。享年33。

新選組・出る幕無し…

一時は池田屋事件で名を挙げた新選組でしたが、1865年(慶応元年)、1866年(慶応2年)にはこれといった活躍を見せることがありませんでした。

長州征伐へのお声がかかると踏んでいた新選組に、参戦命令が下されることはなかったのです。

1867年、元来勤皇攘夷はである伊藤甲子太郎は、配下12人を連れて近藤勇とたもとを分かちます。

そして1868年に始まる新政府軍との戦いに、新選組は連戦連敗を重ねていくのです。

コメント